東京で、金沢みーつけたっ! ―加賀前田藩の中屋敷と下屋敷と、それに関係するはなし―

加賀藩下屋敷之現況(平成4年撮影)(出典:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/013/images/img_13066_2_2.jpg.html

江戸時代、江戸の町には参勤交代で訪れる全国の大名のお屋敷が、いたるところにありました。

当時の江戸の町は世界一の百万都市だったと言われていますが、なんと町の7割が全国の大名のお屋敷の土地で、残りの3割に江戸庶民がひしめきあって暮らしていたそうです。

東京の庶民は、今も昔も狭い家に住んでいたのですね…。

加賀前田藩も、現在の文京区本郷に10万4千坪の広さの上屋敷、文京区駒込に2万坪の中屋敷、板橋区に22万坪の下屋敷、江東区深川に2600坪の蔵屋敷を所有していました。

板橋区にあった22万坪の下屋敷の広さは、なんと兼六園の約7倍、東京ドームの約15倍の広さがあったそうですよ。(トップ写真を参照してくださいね)

上屋敷には藩主やその家族、中屋敷には隠居した藩主などが暮らし、下屋敷は別荘などに使われたそうです。

文京区本郷の上屋敷があった場所は、現在東大になっていますが、文京区駒込の中屋敷のあった場所は、明治以降、隣接する六義園と共に三菱財閥の岩崎家の所有になり、大正時代に日本初の邸宅街、大和郷(やまとむら)になりました。

※ 六義園(りくぎえん)…文京区本駒込6丁目。5代将軍・徳川綱吉の時代の老中・柳沢吉保の庭園。現在は都立庭園。(出典:http://komekami.sakura.ne.jp/archives/791/pb220482

田園調布や成城などが高級住宅地だというのはごく最近の話で、名家の一族などが代々暮らす本当の東京の高級住宅地は、実はこの大和郷のような、皇居からほど近い大名屋敷の跡に出来た町なんだそうです。

大和郷は今も邸宅街の街並みをとどめていますが、大正時代から三菱グループの重役や政治家、官僚、実業家、学者などが多く暮しているそうですよ。

加賀藩下屋敷絵図(出典:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/013/images/img_13066_2_1.jpg.html )

一方、加賀前田藩下屋敷があったのは、中山道の板橋宿のすぐ近く、現在の東京都板橋区の加賀1丁目、2丁目、板橋3丁目、4丁目辺りになります。

トップに写真を乗せましたが、現在は普通の住宅地や加賀公園、帝京大学になっています。

現在も残る加賀藩下屋敷の痕跡は、加賀公園に残っている築山と、板橋3丁目にある観明寺というお寺にある、加賀藩下屋敷で使用されていた通用門くらいなんだそうです。

観明寺に残る加賀藩下屋敷の通用門(出典:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/013/013360.html

この板橋にあった加賀前田藩下屋敷のことを、幕末に招かれた会津藩主・松平容保公らが「まるで桃源郷のようだ」と言ったといいますから、現在、ほとんど痕跡が残っていないというのはちょっと残念ですね。

ところでこの加賀藩下屋敷のあった板橋の町には、今も東光寺というお寺があります。ここには宇喜多秀家の供養塔があります。

東光寺(出典:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/015/images/img_15909_1_1.jpg.html

※私も実際いきましたが、いきなり一般の人が立ち入ってお参りできないのでご注意。

宇喜多秀家は現在の岡山県、備中東部・備前・美作57万4千石を領した大名で、五大老のひとりでもあった有力大名でした。

秀家は、加賀前田藩の初代・前田利家公の娘の豪姫の旦那様で、豪姫との夫婦仲も大変よかったそうです。

戦国一のイケメンといわれた宇喜多秀家(出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Ukita_Hideie.jpg

秀家は豊臣秀吉の死後に起きた関ケ原の戦いで、豊臣家への忠義を守って石田三成側の西軍につきました。

秀家は勇猛果敢に戦いましたが、しかし西軍は数々の裏切りにあって敗北。宇喜多家は改易となり、豪姫は前田家に戻り、秀家は息子達と共に八丈島に流刑となりました。

本来なら宇喜多秀家も石田三成のように捕縛されて斬首されるところでしたが、豪姫の兄で前田家2代当主の前田利長や、秀家を匿った薩摩の島津家の嘆願によって助命が叶い、八丈島への流刑になったそうです。

とはいえ八丈島は、現在も船で10時間かかる離島。生活は苦労が多かったと思います。

宇喜多秀家は息子の宇喜多秀高、秀継と共に流刑となりましたが、その際豪姫も「自分も一緒に八丈島へ」と嘆願したそうです。

豪姫のこの希望は叶えられませんでしたが、しかしその後も豪姫は再婚することはなく、秀家も八丈島で妻を娶ることがなかったそうです。

そして前田家は、八丈島に流された宇喜多秀家やその息子達の子孫に、明治時代になって宇喜多一族が赦免されるまで、江戸時代の間の約260年間、ずっと仕送りを続けたそうです。

この前田家の男気と恩情の篤さをあらわすエピソードには、グッとくるものがあります。

宇喜多一族は明治になって赦免され、八丈島を出ることが出来るようになりました。そして前田家からこの板橋にあった加賀藩下屋敷の土地のうち2万坪を提供され、宇喜多秀家の供養塔を建立したそうです。

現在も加賀藩下屋敷のあった板橋に宇喜多秀家の供養塔が残っているのは、そのような理由からだそうです。

東京にあった多くの大名屋敷や大名庭園。しかし関東大震災や戦争の大空襲などもあり、どのほとんどが消滅しました。

たとえば水戸藩徳川上屋敷は小石川後楽園と東京ドームと後楽園遊園地に、土佐藩山内家上屋敷は有楽町駅前の東京国際フォーラムに、長州藩毛利家中屋敷は六本木の東京ミッドタウンに、島原家松平藩中屋敷は慶応大学三田キャンパスなどになっています。

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